3.まれびとたち






 界中に散在する国家・都市・管区間を行き来する手段は、十五人の魔女を頂点に構成される境界学派ヘクセン・セクトが編んだ『境界議定ヘクサ・プロトコル』によって厳密に規制されている。古来魔女たちは統治せず君臨しなかったが、一定の条件を満たした共同体に対しては必ずこの議定書に批准することを要請した。


 この『境界議定』も学派それ自体も、あまりにも古くから存在したために誰もその正確な由来を知らない。しかし魔女を自称する彼女らを拒絶する勢力は当然過去にいくつも存在した。そもそも軍勢も確たる領地も持たない怪しげな集団の一方的な通告に、諾々と従ういわれなどどこにもないのだ。



 議定書に准じないことそれ自体は学派の逆鱗に触れるものではない。しかし、議定書に明記された条項に違反した場合、学派は間をおかず例外なく当該共同体に苛烈な罰を課した。魔女は兵馬を持たなかったが、圧倒的な武力を有していた。ある時は都市がひとつ消滅したし、ある場合には国そのものが亡んだこともあったかもしれない。魔女は通常ヒト全体に益する行為を主にする存在だったけれど、『境界議定』を侵すものにだけはなんの容赦もしなかった。


 肝心の議定書の内容は実に簡潔だ。要諦はたった三つで事足りた。ひとつに『学派が指定した禁域を(これは必ずしも地理的な事柄に限らない)侵犯しない』こと、ふたつに『学派総体はいかなる勢力にも属さない(ただし個体はこの条項に依らない)』こと、そして最後が『学派は通称弧人≠ニ呼ばれる生体を社会的成員として含有する共同体をいかなる理由に於いても認めない』というものである。


 流通や交通に関しては最初の条項の範疇となる。条文の中で触れられている『禁域』の中で、もっとも人々にとって身近なのは、『外郭』と呼ばれる、生活圏や都市を取り囲む椀型の地形の外縁をなす山間部の奥まった部分と、その上空だ。もっともこの条項に関してはあってもなくてもあまり意味はないのが現状だった。脈々と続く嶄絶たる山々を頻繁に越えるには、人や動物のつくりは脆すぎる。好き好んで山越えをはかるのは酔狂だけだ。


 代わりに利用されているのが、土地と土地を繋ぐ大運河。
 あるいは誰が開通させたとも知らない、樹脈のように地下に走る『坑道』だった。




――――




 ぎこちない二人組が、地下を歩いていく。


「じき地上ですかね」松明の明りに照らされた地図を睨みながら、方国兵部省所属の辺境武官・秦野伊周ハタノコレチカが呟いた。

「地図でそうならそうなんじゃないの。これだけバカ寒いのにまだまだ遠いってことはないでしょう」

 同治部省玄蕃ゲンバ寮所属の寮掌・蘇我愛媛ソガエヒメは口調に疲労を滲ませて、投げやりに答える。手袋越しに触れた発光壁には、結露の痕跡が見つけられた。湿気も強く、視界が届く範囲だけでも少し見渡せばあちこちに苔が群生しているのがわかる。地下水流が近接している坑道に独特の光景だった。

 二人が歩くのは、うす闇にほの青い天然光のぼうっと灯る、地中にくり貫かれた人為の回廊、規模としては最小に属する坑道の中途だ。学派が自らの名義で発行している、世界各所を連繋させる坑道を網羅した地図にも載っていない、いわゆる隠し坑道のひとつだった。

「どちらにせよ、そろそろ国境は越えるのかな。次に地上に出たらすぐ関所だろうから、色々準備しときなよ。あなた、都市の外に出るのは初めてなんでしょう?」
「正確には、国外に出るのが初めて、ですね」

 緊張した面持ちでそう答える秦野は、愛媛より三つ四つ年下の青年だった。ただし女性としてもかなりの小柄である愛媛に比べれば背丈は頭二つ分ほど高く、体つきは比較にならないほどがっしりとしている。体力に関してはそれなりの自信がある愛媛だったが、現役の軍人を前にしてはその根拠も揺らがざるをえなかった。自分ばかりすっかり大きくなりやがって。そう愛媛はわずかに嫉妬を抱く。


「手形はちゃんとあるんでしょうね? 月見里塞やまなしとりでを出てからは七日、都を出てからはもうだいぶ経つけど、ちょっとここまで順調すぎて、そろそろ何かありそうって感じなんだよね」
「外交官がそういうこと言うと、実現しそうで嫌ですね」
「どういう意味よ」と眉を集めながら愛媛。「まさかあなた、わたしが魔女だなんていうくっだらない噂信じてるんじゃないでしょうね」
「……まだそんなの気にしてるんですか」
「当たり前だよ! もう、あのアホ兄のせいでどれだけ肩身の狭い思いをしたことか……!」


 多少本気で憤慨しながら、失言に苦笑いする秦野を睨みつける。愛媛が女だてらに官吏を目指しはじめたころ、大学内で『蘇我氏の末姫殿下は子供の頃から姿が変わってない』という流言が広まったことがあったのだ。噂を広めたのは、何を隠そう愛媛の実兄だった。
 それだけならばまだ身内の中での悪ふざけで済んだかもしれない。しかし前後して奇蹟寮に査問を受けた当時十代半ばの愛媛にとっては、笑いごとで済ませられる話ではなかった。
 秦野はそんな愛媛の心境も露知らず、平和そうに笑うばかりだ。再会した当初は久方ぶりの愛媛との距離感がつかめなかったのか、ずいぶん緊張していたようだったが、さすがに同道して七日も経てば気安くなってくる。愛媛としても、公私混同は好かないとはいえ、弟分にそう恐縮されてもやりにくいため、あえて注意はしなかった。


「いいじゃないですか。未来の卿宮さまにもお茶目なところがあるもんだって、おれらの周りじゃだいぶん好評でしたよ」
「おめーら下っ端に人気でもわたしの腹の虫は全くおさまらないんだっつーの。ってちょっとちょっと、地図明りに近づけすぎ! それ図書寮からかっぱらってきたんだから! 燃やしたりしたら超怒られるんだよっ!」
「あ、すいません」


 愛媛は嘆息し、荷物を背負いなおして壁面を仰ぐ。分家の一員である秦野との親交は足掛け十年以上にもなる。今回の任務で同行する護衛が彼だと聞いたときには、姉のような心持ちで成長振りに期待したものだった。しかし任官から丸一年を経てもまったく洗練されていないその鈍重さには失望を禁じえない。なんだかなあ。こんなんで武官なんて務まるのかね。再会から一週間の旅程で何度そう口にしたか、もう愛媛はおぼえていなかった。
 だいたい護衛が彼一人というのも解せない。玄蕃寮の公務が秘匿されるのはいつものことだが、それだけに外交官の護衛には精鋭が任じられるのだ。愛媛にしても、たった二人だけで国外に行脚するなどといった経験は、実のところ初めてだった。


「吝嗇っていうのとも違うんだよな。廃寮されるってひょっとして本当なんかね……」


 その真偽はともかく、予算が縮小されているのは事実である。


「無職になったりしたら、……即降嫁だろうなー。もう若いっていうにも無理があるし……」
「なにか言いました?」
「別になにも」先行する背中に素っ気無くそう告げて、愛媛は先々の苦労に思いを馳せた。
「元気ないですね。疲れてるんじゃないですか? なんならちょっと休んで……あっ」
「なによちょっと、急に止まらないで。あんた図体ばっかり大きいんだから、道が塞がるでしょ」
「いや、すいません……気が利かなくて」のそのそと歩みを再開した秦野の口調はどこか気まずげだった。「そうなんだ、女性なんですからね、外交官は。男所帯だったもんで、おれ、どうもそのへん疎くって。すいません」
「……ははは」


 秦野が何を邪推しているかを悟って、愛媛は笑った。笑声はいくぶん乾いている。正直手が出かけていたが、というより禁中にいたころの二人であればそうなっていただろうが、愛媛は久闊を叙したばかりの秦野伊周に対しての振る舞いが奔放にならないよう自制していた。なんといっても愛媛の任務は部外秘である。それは護衛である秦野に対しても適用されるのだ。だからあまり気安くしすぎて、若い頃の調子で慣れあうのは職務に支障が出てしまう。愛媛は少しばかり頑なにそう考えていた。

 よって会話も実を結ばないものが多くなる。中身のない軽口を叩きあいながら、二人はさらに坑を進んでいった。そのうちに水場から遠のいたのか、湿気は徐々になくなっていった。ただし道行きは上下左右を問わず折れ、また多岐に渡っていて、延々と徒歩で進むのにはずいぶん骨が折れた。実際、ひどく低い外気にもかかわらず愛媛の体はうっすらと汗ばんでいるくらいだ。


「前々から思ってたんですけど、坑道って不思議ですよね」ふと思いついたという口ぶりで、秦野が呟いた。「おれ、演習で山岳地帯に行ったこともあって、そこで洞窟や岩陰なんかも見たんですけど、坑道とは全然違ってました」
「そりゃそうだろうね。洞窟ってどんなふうにできるか知ってる?」
「いや、知らないっす。無学なもんで。初めから穴が開いてた……わきゃないか」
「うん。だいたいは地下水や雨水なんかが溶食するか、でなければ侵食して、気の遠くなるような年月をかけて岩に穴を穿っていくのが普通。珍しいところでは構造洞窟といって、地滑りや地面の断層によって偶然岩盤の内部に空洞が形成される場合もあるわね」
「炭坑なんかは? ってあれは明らかに人工ですけど」
「ええ、もちろんそれも人工でも洞窟の仲間よね。そういう意味では、この坑道≠チて場所はそちらに近いの。もちろん規模は段違いなのだけれど……」
「へーえ、なるほど。為になりますねえ」
「もっとも、実質何もわかっていないのと大して変わらないけどね」まったく息を切らしていない秦野に対して若干の敗北感を抱きながら、愛媛はややつっけんどんに答えた。「坑道はあんまりにも多くて、なのに古くからあって……いわゆる天然洞窟とは全然違うことは確かなんだけど」
「えっと」視線に観察の趣を強くして、秦野が手狭になりつつある周囲を見回す。相変わらず壁面は滑らかで薄っすらと緑色に輝いていて、岩壁のような無骨さ、荒削りな部分はほとんど見あたらない。そういう目で見れば、坑道が通常の洞窟と異なっているのは明らかだ。「……ってことはこっちは誰かが作った道ってことですよね。まあそりゃそうか。これだけのもの、どれだけ時間かけたって勝手にできるわきゃねーもんなあ」
「そうね。たとえばここまで来た道の中にも、わたしたちのクニの先人が、国防上の都合から掘った杭も少しだけあったよ。でもそれは全体からすれば無に近いくらいほんの少し。それにそういった坑道は未熟で、定期的に補強しないとやがて崩れてしまう不出来なものでね。ここみたいな……発光壁は再現できていないし、かんながけした木材みたいに鮮やかに土を掘ることもできなかったし、岩も削れなかった……発破でもかけなければ、まあ、硬い岩盤を壊すのは無理よね」
「そりゃそのとおりだ」
「だんだん相槌が適当になってきたわね?」苦笑して、それでも愛媛は話を続けた。ようやく興が乗ってきた所なのだ。「珠儀(せかい)の地下を繋ぐこの坑道の成り立ちっていう命題は、孤人≠竍学派≠フ存在と同じくらい研究が盛んな研究よ」
「でも、どっちも奇蹟寮の管轄ですよね」水を差すことを恐れるように控え目に、秦野が言った。「孤人も、魔女も」
「研究だけならそんなことはないんじゃない? 式部省の中でもずいぶん細分化されていることだから、わたしも詳しいことはしらないけど。それにしても……魔女、ね」


 そこで愛媛はようやく喋ることを止める。期せずして会話に登場したその言葉は、今まで意識的に避けていた話題だった。
 その理由は、坑道の隠し通路の地図と共に愛媛が図書寮から貸与された一部の書物にある。六年前の領土放棄の際に本国に持ち帰られた重要指定書類である。秦野はその存在を知らないし、愛媛にも守秘する義務こそあれ教える権利は与えられていない。
 表敬訪問や密使の類ではなく、『狂人の戯言』とまで呼ばれているその書を持って指定された場所へ向かうのが、玄蕃寮によって蘇我愛媛に課された任務だった。


「どうかしました。急に黙っちゃって」会話が途切れて靴音だけが沈黙を埋めるようになると、訝しげな調子で秦野が話しかけてくる。つくづく黙っているのが苦手な性格らしい。「やっぱおなか痛いですか?」
「……そこから離れてね、いいかげん。でないともぐよ?」
「えっ、な、なにを?」
「頭がちでおしりがこのモノを」
「すいません。おれの乳首子をもぐのはどうか勘弁してください」
「ちくびこ……?」
「可愛いやつです」
「うん……そうなんだ。お幸せにね」釈然としない気持ちを抑えて、愛媛はかぶりを振る。追及するのは怖かった。「ねえ、ちょっと黙ってくれない? わたし、いまけっこう真剣なこと考えてるんだ」
 それを聞いて、ええっ、と秦野が大げさな声を上げた。
「おれにこんな所で黙れだなんて、そんなむちゃな」
「……喋らないと死ぬとでもいいたいわけ?」さすがに柳眉を逆立てて、愛媛は声を尖らせた。前を行く秦野の尻を蹴らんばかりだ。「孤人指定されるよ、ほんとうにそうなら。死刑だね、死刑」
「そんなんじゃなくて。だって暗いし狭いし、喋ってないと怖いじゃないですか、ここ」
「子供の頃から、つくづく怖がりよねあなた」


 あからさまにため息をついてみせるが、秦野はまるでめげなかった。


「それに、絶え間なく話してれば獣も近寄ってこないんですよ。べつに戦場にいるってわけでも追われているわけでもないんですから、わざわざ陰気にしなくても」
「ここは坑道よ? 獣なんているわけないでしょーが。もうちょっと広くて人通りがあるところなら、賊くらいいてもおかしくないかもしれないけど」


 容積の広さのわりに人通りが少ない坑道などは、場所によっては犯罪者の根城となっているところもある。それだけならばまだしも、都市部から放逐された存在が巣食っている可能性もあるのだ。特に地図に掲載されていない深部などは、装備や人員が不足している人間には多分に荷が勝つ危険域だった。いみじくも先ほど愛媛が口にしたとおり、『まだわかっていないことはたくさんある』。そう、たとえば。愛媛はそっと背の荷に意識を向ける。魔女リュシアンが降りたという、ナラカ≠ンたいに。


「……いや、いますよ。いるじゃないですか、ほら」
「え、何が?」何言ってんだこの人、という目を向けられて、愛媛は不条理な怒りをおぼえる。
「だから獣ですよ」秦野が松明を地面に向ける。苔のびっしりと生えた床が晧々と照らされた。「足跡があるでしょう、ここに。人間のもあるけど」
「ちょっと待て」


 愛媛は遥か高い場所にある秦野の襟を鷲づかみにすると、強引に歩行を停止させた。有無を言わさず光源をひったくり、その場に這いつくばる。


「地面とにらめっこですか? 敗色濃厚だと思うんですけど」
「…………」


 はたせるかな、秦野の言ったとおり、地面には隠しがたい足跡が、くっきりとは言わないまでも、ついていた。むろん愛媛のものでも秦野のものでもない痕跡だ。それも一人や二人ぶんではなく、少なくとも三種類以上の人間の痕跡が。
 地衣類や苔類は環境によっては稀に数十年や百年、それ以上の単位で古来の痕跡を残すことがある。しかし愛媛が見つけた窪みはそこまで年季が入った代物ではなかった。数時間前とは言わずとも、素人目にも踏みしだかれてからそうは経っていないように見える。
 さらに、相当な重量と思しき明らかに人間とは異なる足跡も散見できた。構造からして蹄を持つ生きものではなく、四足獣の類だろう。
 坑道に四つ足が棲息しているなどといった話を、愛媛は知らない。
 そしてこの回廊は、方国の人間でも一部しか知らない経路なのだ。
 通過したのが同胞である可能性は薄い。となれば、先行者は必然的に警戒対象となる。


「……うおーい」


 愛媛は絶句して、さっと背後を振り返った。予想通り、彼女たち以外の足跡はそこにもある。つまりずっと、気づかないだけだったのだ。視界が悪いこともあるが、あまりに歩きやすい道であるため、足元の注意を怠っていたのは失策だった。
 唇を噛んで立ち上がると、愛媛は飄々とたたずむ秦野を睨みつけた。


「気づいてたね?」
「何のことだか」
「わたしは、あなたがそこまで無能だとは思いたくないよ。付き合いがあった贔屓目なんかじゃなく、わたしの命を預ける相棒としてね。だからこう言うよ。どうして黙ってたの?」
「それは重畳です」秦野に悪びれる色は全くなかった。それがなおさら愛媛の気に障る。「……そう目くじら立てないでくださいよ。仮に足跡の事を言ったとしたって、いたずらにあなたの不安を煽るだけだと判断したんです。そりゃおれだって何度も地図で確認したんですよ。でもこの通路以外じゃ、時間も距離も大幅に無駄を踏むことになる。総距離からいって、この足跡をつけた連中はもう地表に出てますよ、たぶん。それでも安全確認は慎重すぎるほどやりました。ええ。そもそもこの足跡は新しいけど、少なくとも一日二日前のものじゃない。それにいざとなれば逃げる自信もあるし。もちろん外交官も連れて、ですよ?」
「そっか」


 矢継ぎ早に判断の根拠を挙げる秦野に、愛媛は肩の力を抜いて微笑して見せる。


「わたしのためを思ってしてくれたんだよね」
「わかってくれまし、」
「――とでも言うと思ったか木瓜」

 いい終えないうちに、安堵しかけた秦野の股間を蹴り上げた。


 完全に虚を衝かれ、ひゅっと息を吸い込んだ秦野が膝を折って腰を落とす。愛媛は間を置かず低くなった首に手刀を叩き込み、かかとで爪先を踏み抜き、呼吸を求め痛みに喘ぐために開かれた顎にとどめの肘を打ち付けた。それでも倒れない秦野に向けて腰に提げていた伝家の短棍を突きつけて、


「いちいち細かい言い訳をどうも。でねも、伊周、そういうことを考えていたならいたで構わないけれど、先に言うことだけは忘れないで欲しいのよ、わたし。昔からあなたが抜けているって知ってるわたしだからあまり怒らないけど、ね、わかるでしょう? あなた、軍人なんだから。そして、わたしは立場上所属は違ってもあなたの上役なんだから。これは公務なんだし、そのへんちゃんとしないと。わかるよね?」
 愛媛がいっそう笑みを深くして棍の先端を眉間にねじりこむと、負け犬の目で秦野はがくがくと頷いた。
「なら、善し」


 折れず曲がらず腐らず軽くて硬い、構成材質の不明な棍を収めて、愛媛は和やかに秦野の肩を叩く。


「いやー、今ので倒れないなんてたいしたものだよ。りっぱになったね伊周、じゃなくて秦野武官。昔だったら最初の金的の時点で泣き喚くか失神するかだったものね」


 うずくまる秦野を尻目にした愛媛の気分は爽快であった。ここ数日の鬱々とした感覚が一気に払拭されていた。そうそうわたしたちはやっぱりこうじゃないと。大人になったからって急に対応を変えるなんて、それこそ不粋ってものだ。一方で秦野は、やっぱりこうなったいつかこうなると思ってただから嫌だったんだ姫と二人だけなんてくそくそくそなんてこったせっかく任官してあの暴力から離れられると思ってたのになにが姫殿下だちくしょう護衛いらねえだろこの女、と呟きながらひどい顔色で腰を叩いていた。


「おねえさんはあなたが逞しくなってけっこう嬉しいよ。さ、そろそろ先に行こうじゃない。この足跡のことも気になるけど、今はまずここを抜けて、あとはそれからだわ。ちょっと秦野、なんで泣いてるのよ? あんまりめそめそしてるとうざいからこの場で去勢しちゃうぞー」
「短い夢だった……姫がおしとやかになったと思ったのに……」


 嘆く秦野を置いて、蘇我愛媛は央国ドライベスレージ郡二十五管区へと向かって揚々と歩き出した。




――――




 領地は王によって封じられる。その管理を預かる領主には、租税を納めるための領地を保全する義務が生じる。義務の中には治安の維持も当然含まれており、だから都市ではない領地の公的な警察力は領主の私兵である従士に依存する。保安員に割かれる人員も、基本的には領主のものだ。
 ルゥの立場は主君と契約を交わしてその配下となることを約束した従士とはまた異なるが、雇用主である貴族の言葉には逆らえないという点で大差はない。アルマ・ドラクロワに求められるまま河に浮かんでいた死体を回収した旨をつまびらかに話すと、


「ばーか」


 一言で切って捨てられた。


「ぐぅ」
「そういう場合はまず報告だ。連絡だ。そして相談だ。ほう、れん、そうだ。なんで今日みたいに流れの激しい日に水路に入ろうだなんて思える。しかもこの寒さで! 良くて凍傷、転びでもしたら一瞬で終わりだ。特に水難救助は一人であたってどうにかなることのほうが稀なんだぞ、ばかめ」
「二回も言わなくても……」
「ばか」
「……三回、あ、いやごめんなさい」


 あきれ返るアルマを前に、説明し終えたルゥにできたのは肩を落とすことだけだ。リュシアンとは別な意味で、ルゥはアルマに頭が上がらない。そもそも身分的にも精神的にも、自分が居丈高にかかれる相手などいないのだということに気づいて、ルゥは愕然とした。


「まあ、おまえは体だけはへんに丈夫だからな。無事だったんだからもういい。今は体を温めておけ。じきに走らせた連中が人を呼んでくる。そうしたらおまえにも一仕事してもらわなくちゃならない。まったく、厄介事はいつもこうだな。必ず重なるんだ……」
「一仕事って? また仲介?」
「まあそうなるだろうが、詳しいことはあとで話すよ」焚き火に高価な固形燃料を惜しげもなく放り込んで、アルマはすこし唇を噛んだ。「ほら、もっと近くに寄れ。そこじゃ寒いだろう」
「……うん、じゃなくて、はい」
 律儀に言い換えると、アルマが苦笑をこぼした。
「細かい事にこだわるな、おまえは。気にしなくていいって言っているのに」
「けじめですから」

 できるだけ事務的に応じて、ルゥは踊る炎に手をかざした。


 二人は河岸からは離れ、土手の上に熾した火を囲んでいる。ルゥは辞去したのだが、河に入って冷え切った体をそのままにすることをアルマが許さなかったのだ。


 事情を聞いたアルマの判断と指示は素早かった。まず連れてきた従士五人の内二人を近隣の村落へ走らせた。目的は人手の徴集だ。
 従士が領主直属の治安維持部隊とはいっても、基本的に村落には民会≠ニ呼ばれる自治会が組織されていて、法律や祭礼も含めた諸事の大方は彼らによって運営されている。森側の住人≠ニ思しきくだんの男がこちら側≠ノ関わっている可能性は薄いが、死体が出た以上は後々のことまで考慮にいれねばならない。実質最大の行動力である民会を欠いてはことが円滑に運ぶとはいいがたかった。
 一方残った三人には、棒を持たせて一帯の川底を攫わせていた。なぜかと聞くと「死体がひとつとは限らないだろ」と言われて、そこで初めてルゥも死体がまだあるという可能性に考えが及んだ。



「もっともたとえ他にも流れていたとしても、今日の水の勢いではとっくに地下へ流れ込んでるだろうけどな」


 予定が狂ったせいか、アルマはわずかに不機嫌そうに水路を見下ろす。アルマ・ドラクロワは常に自分がどう動き、どう結果を出すべきかについて考えをめぐらせている。そんな彼女にとり不測の事態は切っても切り離せない怨敵で、だったらいいかげん折り合いもついていいころだとルゥは思う。しかし現実的にはアルマが予期せぬ出来事に怒る頻度は一向に減る気配がなく、ルゥはそのたびにとばっちりを喰らっていた。
 潔癖なのかといえば、そうではない。
 それをわかっていて演じている風があるのが、アルマという少女だ。


「……でも、誰に殺されたんだろう。何のために?」
 

 ため息交じりに呟く事ではなかったかもしれないが、ずっと気になっていたことだ。ルゥは意見を求めるようにアルマを見つめた。


「気にならないことはないけど、面倒ごとにならなければなんでもいい。領主も今はいないことだしな」と仏頂面でアルマが言う。「経路から見て、死体は森側の上流から流れてきたはずだから、こっち側の人間にやられたってこともないだろう……と、思いたい」
「それなら捜査する必要もなくなるわけですしね」
「そういうことだ」


 統治者としての貴族が保護するのは、あくまで納税を義務付けられた領民だけである。原住民は交易の相手として充分に尊重しているが、彼らの問題に貴族が介入する必要はないし、望まれることもない。
 今回揚がった死体に関しても、部落に届ける必要性はあるだろう。しかしその先は森の中で管理されるべき事案だ。


「しかし現状の目撃証言だと、といっても実質ルゥひとりだけなんだが、他にはその異国風の娘、というのが死体の発見者ということになるんだな」
「そうなります」首を捻るアルマを眺めて、ルゥは頷いた。「わざわざ教えられなければ気づかなかった可能性もありましたから。もっとも、だからって他には誰も死体を見つけていなかった、ということにはならないでしょうけど」
「そうだな。厄介ごとを嫌って放置した可能性は充分にある。まあ、それはいってもせん無いことだ。べつに咎められるようなことでもないしな。ただ……関所からの距離的に考えづらいことではあるが、もしその娘が本当に異国の人間で、一両日中にこの領地に入り込んできたのなら、探さないわけにはいかない」


 そこでアルマは言葉を切って、とんとん、と人差し指で己の額を弾いた。懸念を消化しきれないときの彼女の癖である。その言い振りで、ルゥはなぜアルマが日中のこの時間帯に修道院の近所などに現れたのか、という疑問の一端に触れた気がした。


「つまり、国境付近でなにか問題が起きたと?」
「ばれたか」ことさら隠すつもりもなかったようで、アルマはすんなりと認めた。「うん。まあ、そういうことだな。といっても、まだ何かが起きたと決まったわけじゃないんだが」


 そう前置きして、アルマは語り始めた。
 近年改編され、新たに央国の領地に加わった二十五管区は、現在ドライベスレージという郡の一部として管理されている。王城が置かれている国都とは異なり、辺境一帯は通例大貴族である州侯とその門閥を頂点にした行政によって成立しているが、二二十五管区に関してはその常識の適用外だった。
 一部の都市国家と同じく、王によって半ば自治権を認められているのだった。現在の二十五管区は、いわば国家の直轄領である。そして同時に国境を守護する最前線でもあるから、当然関所が常置されることになっていた。
 関所があるのは、近隣では一箇所のみだ。ちょうどルゥが奉公する修道院からさらに丸一日ほど南下したところに、工事によって拡大された大規模な坑道の出入り口が置かれている。


「その関所からのな、定時連絡が途絶えたんだ」


 最後の一言で簡潔に事情をまとめたアルマに、ルゥは絶句する。
 ありえないと思いながらも、最悪の事態を連想したのだ。


「……襲われたってこと?」
「だから、それはまだわからないと言った」


 群盗のたぐいがわざわざ関所を襲う可能性は薄い。それよりさらにありえないことだが、仮に他国から侵略に類する行為を受けたのならば、連絡が途絶えて一日以上が経過した状態で何の音沙汰もないはずがない。
 とすれば、何かほかの問題が関所に起きたと考えるのが自然だ。


「まあ、それはそうですね」とルゥも納得する。
「かといって放置などは論外だから、それをこれから確かめに行くわけだ。どうせ通り道だから、その過程であの猟人の死体を届けようと思う。それで……」


 そこで珍しく口ごもって、アルマがルゥをうかがった。


「彼らには事情を説明することになるだろうし、聴取することもある。できれば、ルゥにも来てほしい」
「え。ぼくも一緒に?」
「そうだ」
「関所まで?」
「そうだ」文句あるか、とでもいいたげだった。
「いや、それは無理です」


 苦笑交じりに一蹴すると、アルマがルゥをにらみつけた。


「い、一瞬で断ったな、おまえ。いいじゃないか。父は登城ではるか国都だ。兄たちもめったに都市からは帰ってこない。誰にとがめだてされることもないぞ」
「そういう問題じゃないでしょ。軽々にここを動けば、立場が悪くなるのはぼくもあなたも同じです」
「ばれなきゃいい」
「ばれなければね」言外にありえない、という意図を込めてルゥは首を振った。「ともかく、ぼくはあの人の世話を厳命されています。それによって糊口をしのいでいるわけで、ちょっとそこまで行くくらいならともかく、往復で二日以上の時間を空けるのはちょっと」


 考えてみれば、ルゥは現在も『仕事』の途中であるのだ。水を汲みに来て予定外の事件に巻き込まれたせいで失念しかかっていたが、さすがにそろそろ戻らなければ問題が発生するだろう。
 

「けど、来てくれないと面倒なんだが、いろいろ」
「結局それか」
「どうしても、だめなのか? あまりだめだという場合無理にでも連れて行くことになったりするんだが、だめなのか?」
「いやいやいや、それはかんべんしてくださいよ、ほんと」
「わたしがこうまで頭を下げてるのに。冷たいやつだな。寒中水泳なんか強行するだけのことはある」
「頭なんか下げてないでしょうが、あんた」
「なんだと! 誰がおまえを拾ってきたと思ってるんだ!」
「いきなり怒鳴っても、だめなものはだめ。あと極短時間で色んな篭絡方法を試さないでください」
「えろいことしてあげるって言ったらどうだ?」


 会心の笑みを浮かべるアルマとは対照的に、ルゥは暗鬱たる気分をかみ締めた。


「……自分から絞首台に上がるような真似はちょっと」
「間があった。間があったぞ今! ぐらついたな!」
「呆れたんですよ」
「ぐっ……ま、まあ、おまえ不能だものな」
「名誉的にそれは断じて違うと強硬に主張させていただく」
「ほう。そうか。ならそれを証明するためにも、今回はわたしに同道するんだな」
「すげえ論理のすり替えをやりやがりましたね。雄弁術なら懲罰もんですよ」
「この石頭めぇ……」しかめつらのアルマは『この分からず屋』とでも言いたげだが、それはルゥの台詞である。
「ぼくがいなくなたって、どうにかならないってことはないでしょうに」


 顔をしかめて、ルゥは対応に迷った。己の希望に頑是無いところが、アルマにはある。直截的で、我意を通すことに熱意を傾ける。その特性を概ね好意的に見ることはできたが、ことがリュシアンの絡みになると話は別である。以前にも、アルマはどうにかしてリュシアンの世話からルゥを引き離そうとしたことがあったのだ。
 このまま漫談に付き合っていると、本当に連れ去られかねない。
 長い付き合いだ。剣呑な空気を感じ取って、ルゥはそそくさと場を離れようとした。すでに体は充分に温まっている。解決にはならないが、ともかく今は一度リュシアンの元に戻らなければならない。


「とりあえず、ぼくはちょっと院の方に戻りますから」
「待て」


 が、当然のように一緒に立ち上がるアルマに、まさかと言葉を失った。


「わたしも一緒に行く」


 表情を繕うことを忘れたルゥが、アルマの気分を害さなかった理由はひとつだ。


「令嬢……!」


 使いに出し、帰ってくるなり駆け寄ってきた従士が、明らかな異国の子供を伴っていたのである。










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