2.Lu Doe








 ぶんわたしそろそろ死ぬと思う、とリュシアンがけだるそうにルゥに告げた。ルゥはその言葉を聞いて自分でも意外なほど動揺した。なぜかはわからない。ただ不吉な予言に心が揺れたのだ。ルゥは戸惑いを気取らせまいとしてつとめて不機嫌に、

「そう」

 と答える。そしていつものように薄暗い牢獄の隅で体を投げ出しているリュシアンを横目でうかがう。四方を取り囲む厚く冷たい漆喰の壁は、今日も不具の魔女を拒絶している。

「そう」とルゥは繰り返す。

 観念的に不潔であることを運命付けられた空間に、少年の相槌が虚しく反響する。


 ルゥが暮らす管区が冬季に入り、一ヶ月が過ぎていた。リュシアンを世話するようになってからは四度目の冬だ。今冬は例年に輪をかけて厳しいものだった。先ほども凍りかけた足かせがリュシアンの皮膚に張り付いていたのを、慌てて引き剥がしたところだった。
 当のリュシアンは、今さら肌が欠損することに何の感慨も抱いていないようである。さもありなん、とルゥは改めて、生きていること自体が奇怪なリュシアンの様態を見下ろした。

 包帯の下の左目はまぶたごと抉り取られ、残った右目にも視力はなく、だから彼女は全盲である。さらに四肢も徹底して痛めつけられていた。両足の膝から下は腱を切断され足首は枷に溶接されており、右腕は肩口から切り落とされて左手には手首から先が存在しない。なんでも拷問を受けたという話だったが、拷じた人間がよほどの腕利きであり、また魔女だというリュシアンにヒトよりもずっと優れた体力がなければ、とっくに牢は無人になっていただろう。生来「みにくいもの」に耐性があるルゥでさえリュシアンの怪我を凄惨だと思うのだから、他の人間がリュシアンのいる地下牢に足を踏み入れたがらないのは当然だった。
 しかしそんなリュシアンにも、今年の寒さは堪えているようだ。弱気なことをいいだしたのはそのせいかもしれないとルゥは思った。


「死ぬって、なんで?」
「なんとなく、そんな気がした」
「魔女って、未来のこともわかるんだ」
「いや」寝転がった体勢で、リュシアンが身じろぎした。鎖がちゃらりと音を立てた。「予言ができるやつはいないと思うよ。ただ、それに近いことならわたしにもできた。今は無理だけど」
「近いことって、たとえば?」


 ルゥがたずねると、一瞬の沈黙を挟んでリュシアンは『予言』した。


「ルゥは今日、河に落ちるでしょう」


 癇に障る笑いを含んだ台詞に、ルゥは顔をしかめた。その手元には水桶が握られている。リュシアンが言う河とは、これから彼が水を汲みに行く場所を指していた。


「縁起でもないこというな」それなりに信心深いルゥは、指で聖印を切りながら憮然とする。「今日なんてひときわ寒いんだ。河に落ちたらあっという間に死んじゃうぞ」
「だろうね。あーあっ、君がいなくなっちゃったら可哀想なわたしの世話をしようだなんて奇特なヒトは、もうここにはいなくなっちゃうだろうなー」
「……寒いから気をつけてって言いたいのか? ひょっとして」


 ひっく、と失敗したしゃっくりのような音がリュシアンの喉から響いた。
 笑われたのだ、とルゥは赤面する。

「冗談だよ」
 と口早に言って出口へ向かった。


「それより」少しの外出にも、施錠を怠らないよう厳命されている。ルゥは分厚い扉にかんぬきをかけながら、部屋の奥に向けて声をかけた。「帰ってきたら昨日の続きだからな。忘れないでよ」


 あいよー、という返事を背に受けて、ルゥは地上へ歩き出した。




――――




 辺境第二十五管区修道院というのがリュシアンの幽閉されている施設の正式名称で、もちろん土地の人間は長ったらしい名前なんて使わずに、その陰気な建物を『修道院』とだけ呼んでいる。

 この修道院の教会施設としての歴史はかなり浅く、実はまだ設立から五年ほどしか経過していない。なぜかといえば、二十五管区がもともとは方国、要は違う国の領土だったためだ。それが三国会議によって教会預かりになるまでには込み入った事情があり、央国の貴族が暫定的にその土地に封じられたのには、さらに複雑な経緯があるらしい。らしいというのは、ルゥもその全貌をつかんでいないためだ。

 もっとも知らないのはルゥばかりではない。厳寒の気候のうえ、目だった都市や産出もない二十五管区をめぐって繊細な外交が行われた、などというのは近隣住民からすれば現実感を欠いた話だった。

 国境線の再設定にともない、開墾の名目で各国からは少なくない移民が二十五管区にやってきたが、その大半は土壌部分の圧倒的な不足に気づくと、最初の冬で早々に本国に帰るか、近場の都市へ逃げ込むという結果に終わっていた。加えて先住民の部落との軋轢や土地所有の問題も頻発している。今では他にいくあてのないわずかな人間が細々と出稼ぎに出て生計を立てているくらいで、特に樹林帯の近辺は閑散としたものである。


 光をさえぎって久しい雲の層と管区のぐるりを取り囲む断崖の一部をにらみながら、水桶を片手にルゥは流水路へと歩いていく。先ほどリュシアンに漏らしたとおり、この日の寒さは常と比べてもひとしおだった。顔を防寒布で覆っていなければ、肌は数時間で霜焼にかかってしまうだろう。


 修道院の立地は、教会の施設だけあって人里離れた場所にある。そこまでなら通常の修道院と変わりはない。問題は院が慢性の人不足に陥っているところにある。五年前にルゥが初めて訪れた日以来、当時数名しかいなかった顔ぶれがまったく変化していないのである。
 そもそも修道院とは、その名の通り信仰を胸に秘めた信徒が俗世から離れて道を修めるための施設である。また神学者をこころざす貴族の子弟や学業に秀でた子供を集めて教育する場でも、同時にある。しかしルゥが働いている修道院はそのどちらでもない。第三の目的があるわけではなく、『経営方針としてどちらを取るべきか』を開院から数年を経た今でも決めあぐねているのだ。院が静まり返っているのは、だから厳粛さのためではなく過疎のためだった。


 整地されていない地面を避けて、ルゥは石大地を選んで歩いていく。鍬や鋤では耕すこともできない地面を彼は毛嫌いしていたが、歩くぶんには起伏の激しい土壌部分よりもずっと都合がよかった。蛇の背のように滑らかな地面には足を取られることもないのだ。ただ時折石の割れ目から雑草が頭を出していて、そういった場所に差し掛かるときには注意を払わねばならない。石が脆くなっている可能性があるからである。


 目的地にはほどなく到着した。森林帯と草原の境界部分には、流水路と呼ばれる生活用水の流れる溝がある。近隣の住民は当たり前のように利用しているが、実は水源が定かではない。都市から流れているにしては水質が澄みすぎているから、地下水脈がたまたま地表に末端を表出させているのではないかと見られている。それでも井戸で汲み上げている水ではないから煮沸しなければ飲むことはできないが、体を清める程度にならば充分使えた。


 とうてい飛び越えられない川幅の割に水流の勢いは激しく、そのおかげでひどい寒さの日にも凍結はしないのだが、水深も人間を簡単に飲み込む程度にはあって、危険である。一年に一人くらいは流水路に呑まれたまま姿を消す人間も居た。リュシアンの予言を真に受けたわけではないと自分に言い訳しながら、ルゥはいつもよりずっと慎重に半円状の水路に向かって草の繁る傾斜を降りていく。

「そっと、そーっと……」

 そろそろと足場を確かめながら歩を進め、手を伸ばせば水面に触れられる位置にたどりついた。

 ――対岸に少女が立っているのが見えた。

 見覚えのない顔だ。ルゥは眉間に皺を寄せる。それに少女は、出で立ちからして樹林の奥に住まう先住民たちではないようにも見える。
 毛皮の帽子と厚手の外套にすっぽりと包まれた体は小柄で、若いというよりは幼い印象を受けた。遠目にも、顔立ちには異国の特徴が見受けられる。異邦人なのかもしれない。

 こんな僻地に異邦人。内心で首をひねりながらも、ルゥは不躾に視線を送り続けることはしなかった。ルゥはあまり人見知りはしない。しかし相手が『異邦人』となれば別の問題が浮上する。煩わしいことをもちろん彼は嫌っていたから、穏当に無視することを選んだ。
 しかし、相手はそうではないようだった。


「ねえ」


 と淡白な声がルゥの耳に届いた。水音にかき消されない、ぎりぎりの音量。ルゥは顔を上げ、音源を探った。その先には当然、少女がいる。
 荷物らしい長い筒を手に掲げ持った少女は、その筒でルゥからは遠い水面の一箇所を指していた。変哲のない顔だけがこちらを向いている。


「あれを見て」


 刃物のように鋭く冷えた水に指を浸しながら、ルゥは示された方角を矯めた。濁流がわずかな光を反射して、呼吸する生き物の、うごめくはらわたのようにも見える。

 その岸に近い位置に、わずかな淀みが出来ていた。一瞬ルゥにはそう見えた。正確にはそれは淀みではなく硬直した人体である。理解が追いつかなかったのは、単にそのための努力を怠っていたからだ。

 気づいたとたん、ルゥは瞠目して、腰を浮かせた。


「……おいおい!」


 泡を食って視線をさまよわせるが、先ほどの少女はいなくなっていた。消えたわけではない。対岸は丘陵になっていて、ルゥの立つ側からは少し歩けばすぐに姿が見えなくなる構造になっている。

 逃げたのだ。厄介ごとを嫌って。

 ルゥは舌打ちした。その無責任さに腹が立った。そして怒りをおぼえた以上、ここで見過ごすという選択肢が消える。行き場のない苛立ちを吐息で逃がしながら、ルゥはリュシアンの予言を思い出す。牢に戻った自分を迎える耳障りな笑いを予感し、とっさに頭の中で抗弁をつくりあげた。ぼくは落ちるんじゃないぞ。
 自分から河に入るだけだ。

 その言い訳がどれだけ空しいかはすぐにわかった。永遠に口に出すことはないだろうな、と彼は思った。
 深呼吸すると、ルゥは服を脱ぎにかかった。吹き込んでくる寒風に遅まきながら後悔しはじめたが、少年にも歯を食いしばる程度の意地はあった。


 なにかよんどころのない事情があって冷水を被らなければならないときにするべき、三つの心得がある。ひとつは覚悟すること。ふたつめは決していきなり全身を水に浸さないこと。最後に、なるべくならそんな馬鹿な真似をせずに済む別の手段を講じるよう頭を働かせること。


「おい! 生きてるか! 大丈夫か!」


 三つ目の作法を一瞬脳裏に浮かばせたルゥだったが、水難からの救助は一刻を争う事態だというおぼろげな記憶が踏ん切りを手伝った。飛沫をあげる川瀬の中腹で、突き立つ棒切れに引っかかるようにして浮かんでいる人間を睨むように見据える。顔を水に沈めたままぴくりとも動かない背はまるで中州だ。そして流れに押されるままに力なく投げ出された両の腕は水草だった。


「生きてるなら返事をしてくれ! ていうか自分で起きて泳いでくれ! おーい! やっぱりだめか……」


 あれは生きてはいないだろう。だったら放っておいてもいいはずだ。そうルゥは思うのに、「もしかしたら」という希望的観測は彼の背を押し続ける。結局はやるしかないのだ。まなじりを決してルゥは右足のつま先を水に浸す。その側から脳天まで痺れるような冷気が体に這い上がってくる。歯を食いしばって脹ら脛までを沈めると、足の裏がぬめった水底を捉えた。深度だけは不安だったが、どうやら大丈夫だ。ルゥは確信した。水は底を見通せるほど澄んではいない。しかし記憶どおりなら、このあたりの水深はせいぜいルゥの腰までのはずだった。

 水面に浮く背中までは、あとほんの数歩前進して腕を伸ばせば手が届く程度の距離だ。けれどたったそれだけの道程が、早瀬と身に染み入ってくる寒気のためにやたらと遠く思える。


「ままよ――」


 気勢を上げるつもりが、かみ合わない歯の根のせいで尻すぼみの語尾に化けた。咳払いしつつ今度は無言のまま放り込む勢いで、ルゥは残った足を思い切って河流へ踏み出した。
 するとすぐさま、ことによると冷気よりも厄介かもしれない抵抗が両足にからみついてくる。負けじと腰を据えて前進を開始すると、ざんぶと水が跳ね上がり、数滴のつぶてがルゥの頬を打った。

 背筋を震わせながら、ルゥは早くも垂れかけていた洟をすすった。労苦が報われない予感は、この時点ですでにひしひしとしていた。




――――




「くそ」


 無自覚に全身を震わせながら、ルゥは冷水に晒された両足を布で摩擦する。すでに指先の感覚はなかった。これで足の指と永遠にお別れだなんて、ぞっとしない話だ。


「おまけに骨折り損だし」


 と不平をこぼして、ルゥは隣に転がる死体を見下ろした。
 予想していなかったわけではないが、決死の覚悟で引き上げたのは、既に死んだ男だった。樹林帯を根城にする猟師がよく着込む、獣の皮をなめした上着をまとっている。さっきの少女のような異邦人ではないようだった。
 当然ながら死体はぴくりともしない。不自然な体勢で四肢を強張らせ彫像と化している。しかしおかげで陸に引き上げるとき以外は存外に楽に運べたのだから、その点に関してルゥに文句はない。感謝してもいいくらいだ。

 しかし、腑に落ちない点はいくつかあった。

 まず、男がいつ死んだのかだ。毛髪が凍りかけていたくらいだから、息を引き取ったのが一時間や二時間前ということはないだろう。だとすると、ルゥがひとりで慌てて死体を水揚げする必要はなかったことになる。

 それはいい。貧乏くじを引くのは慣れている。足に温もりが戻るのを感じ、皮膚にかゆみを覚えながら、ルゥはうつ伏せの死体をじっと観察した。

 そもそも猟師が流水路に落ちて死ぬなんてことがあるのか。ルゥにとっての最大の引っかかりはそこにあった。猟師は都市や農園に安住せず、自ら厳しい環境に身を置き自然を伴侶とすることを選んだ人々の末裔だ。彼らは誇張ではなく、生まれた瞬間から土地での生き方を叩き込まれる。独立し、自活することが彼らの誇りなのである。注意の足りない子供や気が散じた老人ならばともかく、見たところ死んでいる男は働き盛りで、到底不注意で水路に落ちるような間抜けには見えない。
 男は顔面を凍てつかせ、半ばまで閉じられたまぶたから生える睫毛まで霜に覆われている。そこから死の直前に男が浮かべただろう感情はほんの少しも読み取れなかった。他に、異様なむくみや腐敗の兆候は見られない。それに水死体に共通する体の肥大や、大量の水を飲んだ気配もない。一見して、綺麗な死体といえた。


「……ん?」


 皮膚を揉み解しながら血行を促進させようと努力するルゥは、男の衣服に赤い斑点を認め、眉をひそめる。無言のまま死体を裏返すと、今度は腹部と胸部に黒ずんだ赤が大きな染みをつくっているのが見えた。
 凍瘡には見えない。間違いなく刀創だった。あるいは、槍だ。


「うわ。えっと、これ、血、だよな……」


 見間違いであることを祈ったが、見れば見るほどそれは乾いた血のあとだった。


「と、いうことは」


 水に浸っていたにも関わらずはっきりと血痕が残っている。それが示すところはひとつだ。つまり男は刺された後で、流水路に落ちたか、あるいは捨てられたのである。異様にものを知っているリュシアンならばもっと詳しいことがわかるかもしれない。とりあえず男の死因は溺死ではない、ということだけはルゥにもわかった。
 それに、死体が明らかな他殺体であるこの場合、発見した自身の立場が多少危うくなるということも。


「波乱に満ちてきたな」心底嫌気を込めてルゥは呟いた。死体なんか引き揚げるんじゃなかった。いやそもそも親切心なんか起こすべきじゃなかった、と思うべきか? でもあの場合はほかにどうしようもなかったのだ。「まずいな。どうしよう」


 いやしくも領主のもとで働く領民の義務としては、ただちに保安員(コンスタブル)に通報するのが正しい。彼らもまた領主が組織する私兵でありいわばルゥの同僚ともいえるのだが、あいにくとルゥはとある事情から彼らからは蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。不用意に発見者として名乗り出れば、ここぞとばかりに詰責されるのは想像に難くない。
 また、いまのルゥがリュシアンの世話人として行動している点に最大の問題があった。詳しい事情は何一つ聞かされていないルゥだったが、リュシアンのことを関係者以外に漏らした場合、裁判を含む定められたすべての手順を省略して重罰が下されることになっている。それだけに保安員にはそれとなく平時のルゥの行動には関わらないようにという旨の命令が渡っているはずだが、他人への過剰な期待は禁物だ。とりわけ、自分に悪意を持つ人間に対しては。


 隣で永遠の眠りを満喫している厄介の種を凝然と見て、ルゥは口を結んだ。『それ』は魂の抜けた体である。生きているのならばなんらかの手の施しようがあったのかもしれない。しかし生者が死人にしてやれるのは、祈りを捧げることだけだ。付け加えるならば、それは僧の仕事だともルゥは考えていた。


「いや」


 できることはまだある。ルゥは思いつきに手を打った。
 弔いだ。


「……そういうわけで、埋めるのはどうだろう」


 そう漏らしたとき、近づいてくる気配があった。一種類ではない声と、地を踏む複数の足音をルゥの耳が捉えている。

「げっ」

 後ろ暗いことは少ししかないとはいえ、傍らに死体を寝かせている状況である。ルゥが座り込んでいるのは土手の傾斜の根元なので、普通に道を歩いている人間には伏せていれば目視されることはないだろう。しかし、そもそもこのあたりには水路以外に目ぼしいものは何もない。道を歩いている人間には見えないということは、水路に下りようとする人間には一瞬で見つかってしまうということだった。
 思わず脱いだ外套と靴を抱え込み、逃げる算段をつけようとしたルゥを呼び止めたのは、張りのある声だった。


「ルゥ!」
「うわ!」


 一瞬だけ身をすくめ、観念して土手の上を仰ぐ。名指しで呼ばれた以上、ここで逃げる意味はもはや失せた。それ以前に、彼の名を呼んだ人物を、ルゥはよく知っていたのだ。
 称呼の主は馬上の人だった。やや色あせた金髪を短く切りそろえた、少年のルゥと比べても上背のある少女だ。その髪も先ほどの声も挑戦的に釣りあがった瞳も、ルゥにとっては馴染みのものである。


「……お嬢さま」
「うん。おはよう、ルゥ」


 危なげなく下馬した管区領主の末子、アルマ・ドラクロワは、ルゥの姿を認めると何のためらいもなく斜面を下り始める。その背後で露骨に自分を無視する数人の従者の姿を認めて、ルゥは人知れず肝を冷した。


「なんだ、どうしたんだ。こんなところで」息を弾ませて近づいてくるアルマの顔は、ぱっと見そうとはわからない程度にほころんでいる。
「あ、いえ、水を汲みに」
「水だと? 水なら屋敷にもあるのに……ああ、そうか。修道院の近くだったな、ここは」


 そこまで言ったところで、アルマは渋い顔で言葉を切った。彼女はルゥがここ数年、リュシアンの世話にかかりきりになっていることを知っている。そしてそのことをあまり歓迎もしていない。むしろ積極的に反対しているといってよかった。
 もっとも、リュシアンについてはアルマの一存でどうにかなることではない。彼女は名目こそ領主令嬢だが、その実態は妾腹の身分である。貴族である父の姓ド・ラランドを名乗ることも許されておらず、父であるところのラランド領主に直接意見する権利もなかった。


「なんでっていうならぼくの台詞です。お嬢さまこそ、どうしてこんな所へ? しかも従者なんか引き連れて」
「うん、ちょっとな」アルマは言葉を濁す。話せないのと説明が面倒なのが半々だな、とルゥは見当をつけた。「それよりなんだ、あらたまってお嬢さまだなんて。なにか欲しいものでもあるのか?」
「遠慮と思いやりが欲しいんだ」アルマが親しげに振舞うたび、頭上の同僚との距離が隔たっていくのである。
「それなら溢れんばかりにある。恵んでやらないでもないぞ」とアルマがふんぞり返る。
「……ぼくがアルマに期待することって、そんなに無茶かなあ」
「見解の相違、というやつがあるだけじゃないのかと私は見るぞ」
「なにいってんだよ……」


 肩を落として、ルゥは体裁を取り繕わせることを断念した。


 その出生から家人に遠ざけられたアルマと、妙な経緯で彼女のもとへ奉公に出たルゥの付き合いは長い。そのため主従よりはきょうだいに近いのが、二人の関係だ。アルマもルゥに対してはある程度気安い態度を許していたが、ルゥの方では衆目のある場所で彼女に馴れ馴れしく接することは控えていた。いくら親密だろうと、本来的に彼と彼女を結ぶ線は対等ではないのだ。


「まあそれはいい。それよりなんで脱いでる。水浴びはかなり無謀なこころみだと私は思うぞ」
「よくないんだけど、まったくですね」心からルゥは頷いた。水の冷たさを思い出し、身震いする。
「おまえ、もしかしてもう泳いだのか! 呆れたやつだな。いったいなんでまた……ばかじゃないのか。風邪引いたらどうする。誰がわたしの食事を用意するんだ」

 ルゥと同じ仕立ての防寒着の襟元を締めつつ、愕然としてアルマ。ルゥはそこで無視できない問題を思い出して、なんと説明するべきか迷った。

「いや、その……」
「ん?」


 しかし、目ざといアルマはルゥの説明を待たず、水路の傍に転がる物体を見咎めた。「なんだ。誰だあれは」
 事件の隠蔽をここでようやく諦めて、ルゥはアルマに全てを任せてしまうことを決めた。嘆息と共に、淡々と事実を告げる。


「どざえもんです」
「ドジャイモン? 奇天烈な名前だな。知り合いか」
「残念ながら違う。それにあの人はもう死んでるから、知り合いにはなれそうもありません」
「死んでる?」


 きょとんと目をしばたいたアルマは、剣帯を揺らしてすぐに死体の元まで近づくと、まず頭の天辺からつま先までをじろじろと検分しはじめた。脈をとり、眼球を確認し、血痕に眉をしかめ、鼻を鳴らす。
 それら一通りの手順を終えた挙句に、ルゥが思わず顔を背けるような勢いで蹴りを放った。それでようやく死体が何の反応も示さないことに納得したのか、「本当だ、これは死体だな」と呟く。「十字架の子(ドラクロワ)」の名が恥じ入りそうな無体だった。
 アルマは厳粛な面持ちで、唖然としているルゥに向き直った。


「説明、してもらおうか?」
 






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