1.根の国





 年ほど前の昔話から始まる。その日地獄はひとりの魔女によって踏破された。神祇官直轄の組織である奇蹟寮によって非公式に認定された第三魔女・リュシアンが、二年の歳月をかけて底なしとも思われた超々巨大地下空洞、通称『地獄(ナラカ)』とか『虚穴(ホロウ)』と呼ばれる迷宮の最深部に到達したのだ。これは他のあらゆる勢力のはるか先を行く快挙だった。

 当時の方国の領土ぎりぎり、実質的には国境が交わる緩衝地帯ともいうべき地点に『ナラカ』の出現が観測されたのは、そのおよそ三年前のことである。以来数々の探検家や調査隊を飲み込んでは二度と返さなかった怪物的狂気の産物が、最下層へ人跡の侵入を許した。もちろんこれは、リュシアンが魔女でなければ到底不可能な偉業だった。なにしろのちにリュシアンが製図したところの『暫定地獄絵図(テンポラリダイヤグラム)』によれば、国土省が『ナラカ』に派遣していた、当時もっとも大きな規模の調査団が到達していた階層は、全体のほんの七十分の一に過ぎなかったのだ。しかもこれは深度のみに限った話で、無限に近い横穴やリュシアンさえも知らない分岐も考えに含めるのなら、割合に換算したところで閾値以下になることは予想するに難くない。さらに、リュシアンはこの『ナラカ』に関して驚くべき推論を打ち出していた。

『信じがたいことに、このナラカに脈のごとく張り巡らされた数々の穴は縦横問わず変動し、恐らく成長している。それも、人跡未踏の地に限ってである。観測によって安定する構造物、それがこの『地獄』であると思われる。このことから、ナラカは少なからず生物的な特性を有していることがわかる。むろんこれは言葉通りの意味ではなく、あくまで観察的見地に立っての意見にすぎないことを注記しておく』

 ナラカを直接体感したのことのない専門家は、十人が十人ともこのレポートに懐疑的な態度を取った。生き物のごとく成長する巣穴だと。ばかな。ではあの中には巨大なモグラがいて、そいつが時空を穿っているとでも言うのか。しかし現場を知る調査団に随行した研究員のほぼ全員が、リュシアンのこの仮説を支持した。実際のところその把握するのも馬鹿らしい容積からして、『ナラカ』内部が空間的に歪曲しきっていることは明らかであり、だからこそこの管区が方国預かりであった自分には、その調査に奇蹟寮が関わっていたのである。

 しかし今現在もなお『ナラカ』が拡大しつつあるというならば、それはまた別の問題をはらむ。想像してみればわかる。自分のすぐ足元で、それがたとえ異空間の出来事だろうと、延々と不気味な空洞が形成されているというのだ。考えるだに恐ろしい話だった。そして事実の真否を確認するべくナラカに足を運んだ当代随一とうたわれた探検家は、一ヶ月の潜行ののち地上に戻り三週間後に発狂して自害した。末期の言葉はこうだった。

「世界が喰われている音が聴こえないのか」

 事態を危機的に見た奇蹟寮は、『高度に政治的な』事情によって、ナラカ踏破以来秘密裏に拘束していた魔女リュシアンに対し、拷問を含む査問を執行することを決定した。しかし、一週間にわたる尋問に対して獄中のリュシアンが言葉を発したのは一度だけだった。「モグラではないよ」と彼女は笑った。

「巣食っているのは、蟻と蚯蚓さ」


――――


 風も光も届かない。時間の流れさえあるいは変質を免れない。遠近感が破綻するほど広大無辺な穴倉の底に魔女リュシアンは佇立する。地獄の果ては遼遠な空間に暗闇が満ちた場所だった。入り組んだ迷路ではなく、永遠に循環する一本道でもなく、ただ荒涼とした闇と人為的なまでに平坦な床が広がっていた。リュシアンは一時間待っても感覚計器がなんの反響(エコー)も示さないことに、ナラカに潜ってから何千度目ともわからないため息をつく。つまりこの空間の面積は地上の視覚的無限に等しいということだ。たとえば明りがあって、それが照らすのが『地平線』であってもおかしくないということだ。
「おかしくないわけあるか馬鹿」
 と思わず呟いて、リュシアンは爆笑した。痙攣のように末梢神経的な、それは笑いだ。二年にわたる過酷な『穴もぐり』に、もともと健常とはいえなかったリュシアンの精神はいっそう深刻に病的な様相を呈していた。独り言が異様に増加し、孤独を紛らわすために便宜的に増設された仮構人格は七を数えておりしかも主格は半年前に『殺され』ていた。だからいまのリュシアンをリュシアンと呼ぶのはある意味不適切なのかもしれない。しかし魔女にとって精神や人格は存在の主体ではない。だから魔女リュシアンは、あくまで魔女リュシアンなのだった。

 長期にわたる探索の弊害は精神のみに留まらない。リュシアンの五感は『ナラカ』内の秩序に適応するように改造されて、今やかつての彼女のそれとはまったく異質だった。中でも視覚が受けた影響は深刻だ。恐らく今地上に出れば、桿体細胞ばかりが異常なまでに進化し他の機能を完全に退化させた眼球は即座に潰れるに違いない。
 反面盲人の多くがそうであるように、嗅覚や聴覚はどこまでも先鋭化されている。今のリュシアンは空気のにおいもかぎ分ける。自らの息づかいと足音の反響によって、視認するよりもずっと正確に空間の広さを感じ取ることができる。わが身を顧み、三角帽を被りなおしてローブの襟を正しながら彼女は「やれやれわたしはモグラか」と慨嘆した。

「とまれ、ここが最後ってことでいいのかね。いやぁ、長かったな。ねえ」

 さながら孤独な神の廟宇といった風情の地獄の底を見まわして、リュシアンは中途から加わった道連れに同意を求めた。しかし返答はない。「イルマ?」と若い魔女の名を呼んでもやはり反応がない。奇蹟寮にいまだ認定されていない魔女、イルマ・フェアファックスはいつの間にやらいなくなっていた。リュシアンは彼女の不在にまったく気づかなかった。人格破綻者にもかかわらず後進に対しては意外な責任感を持つリュシアンは色を失い、感覚を研ぎ澄ませる。最下層に足を踏み入れた時点ではまだイルマが背後にいたはずだ。いなくなったのならば『平野』に到着して以降でなければおかしい。

 魔女は同類をのぞけば三界に敵ばかり置く難儀な存在である。その中でも最速でナラカを『降下』してきたリュシアンに追いつけるか、あるいは待ち伏せが可能な存在など『同系』を合わせても両手の指にも余るが、それでも敵対者による攻撃の可能性を考慮しないわけにはいかなかった。イルマは若輩ながら戦闘に関してはリュシアンなどよりはるかに特化した存在である。そのイルマが声も出せずに消された相手に、楽観的予測など暴挙以外の何ものでもなかった。

 結果的にリュシアンの警戒は半分杞憂で、半分正解だった。闇の奥からあらわれた、カンテラの明りに照らされたイルマの姿を見て、リュシアンは安堵する。

「無事なら返事くらいしてくれよ。余計な心配をしてしまった」じゃないか、といいかけてリュシアンは絶句した。

 はじめいつものように幻覚を見たのだと彼女は考えたが、思考以外の感覚すべてが、その判断が誤りであることを伝えていた。
 イルマのそばに子供がいた。「金髪(フェアファックス)」の名が示すとおりみごとな長髪の影に隠れるように、長身のイルマの腰ほどにも背がない少年が立っている。リュシアンは思わず頭上を仰ぐ。自分が今立っている場所を確認する。何度も絶望しかけた冥界行の、ここは果てのはずだ。彼女自身が地獄めぐりの際に逐一記述し続けた地図を信頼するならば、『中層』以降にはいわゆる生物と呼称できる存在は、これまでのところ皆無だった。

 リュシアンとイルマがナラカで遭遇したのは、『長虫』と名づけた、恐らくは自動的に異物を排除する役割を備えているのであろう巨大な蚯蚓と、ナラカを拡張する機能を負っていると思われる『蟻』のみ。そしてそのどちらもせいぜい呼称に合致するのは大まかな外見くらいで、実態はおよそまっとうな「いきもの」の定義からは外れた怪物だった。
 そんなところに、子供がいる。考えるまでもない異状である。

「念のため聞いてみる」黙然としたままのイルマに近寄り、その背後にいる子供をまじまじと見つめながら、リュシアンは首を傾げる。「この子は君の子じゃないよね。彼女はたしか女の子のはずだったし、この子は男の子だ」
「ええ。違います」

 リュシアンはようやく返事をしたイルマを見上げる。帽子の下の灰色の双眸が剣呑に細められる。視線がすらりとしたイルマの肢体を何度も行き来する。イルマはリュシアンとは異なり、『老いる』ことができる。魔女の常として実の子を産むことはできないが、外見も内実も通常の人間とさほど変わらない。事実イルマは西方出自の妙齢の美女にしか見えないし、そもそも生まれた時点では魔女などといった種族とは無縁の存在だった。
 これは先天的な魔女と後天的な魔女の二種が存在することを、必ずしも意味しない。はじめ人間として生まれのちに魔女と『成る』ような存在を、リュシアンはイルマ以外に知らなかった。ここはむしろイルマこそが希少な例外と言うべきだろう。
 出会った頃にはまだ少女だったイルマが、そうして今はもう女性としての美を円熟させつつある落差に、しかしリュシアンは大した感慨をおぼえない。そういった情緒の一切は、ナラカを落ちるはるか前にリュシアンの内部から駆逐されている。もっと端的に言えば、リュシアンが世界に誕生した瞬間に組まれた感情機構には、その種の機能が備わっていなかったのだ。
 魔女リュシアンは他者性を鳥の羽より軽んずる。慮る、といった行為が絶望的に不得手なのだった。
 だからイルマの態度が一見変わりないことだけを確認すると、リュシアンはすねるように言った。

「じゃあ、なんなのさ」
「神託を受けたのです」
「は? なんだって?」

 突拍子もない告白に、リュシアンは呆れと喫驚を語調で表す。ただし、顔面は微動さえさせていない。

「神託を、受けました」
 暗中にあって輝いて見える美貌をそっと曇らせながら、イルマ・フェアファックスは繰り返しそう言った。
「……神託ときたか」

 リュシアンは一度呼吸をするあいだその言葉の意味を汲み取ろうとして、すぐに放棄した。次に短絡的に、彼女は発狂したのかもしれないと考えた。
 ありえないことではない。ナラカにおいてありえないことはないと、この二年でリュシアンは食あたりを起こしそうなほど学んでいる。魔女イルマ・フェアファックスが狂うことがあってもおかしくはない。しかし、だとすれば由々しき問題だ。リュシアンは眉根を寄せて鼻を鳴らした。なにしろ狂人の行動は往々にして突飛である。まばたきした次の瞬間、イルマがリュシアンに害をなさないとも限らない。
 身の安全をはかるため、リュシアンはイルマから距離を取って沈思した。
 その思考を先回りするかのように、イルマがこわばった微笑を浮かべて呟いた。

「わたしが狂ったと考えましたか?」
「うん」正直にリュシアンは頷いた。なんとはなしに、狂人に対しては誠実であらねばならないような思い込みが彼女の中にはあったのだ。「予言でも幻視でも推理でも密告でもなく、君は神託を受けたといった。それは君に対して何らかの恣意が働いたことを意味している。警戒に値することじゃないか、それは。ねえ」
「何らか、ではなく、神なのではないですか? なにしろ神託なのですから」
「そうだね。対象が神だというなら、出会ったことはないけれど、それはなおさら敵っぽいと思うんだ。なにしろわたしは魔女なわけだから。……それで、よければその神託の内容をわたしにも聞かせてほしいんだけど」
「無論、それはこの御子についてです」
 存外にあっさりとした吐露は、さすがのリュシアンにも疑念と不快さを引き起こした。イルマが視線で示す背後に、枯渇した感性が注がれる。
「なるほど。そいつが渦中の存在って認識していいってことね。じゃあ単刀直入に聞くけれど。そいつ、なに?」
「宝です。世界の」
「大きくでたな、君」

 いらえるイルマの表情に、リュシアンは祈る人のそれと同じものを見いだした。
『魔女』を結ぶものは教義ではない。だから中には、特に若い魔女には、信仰を持つものいる。イルマもその一人で、敬虔ではないにせよ神論者ではあったとリュシアンは記憶している。

「比喩や、狂気に唆されてのものではありません、姉様」やや力を込めつつ、イルマはそう説くのだった。「この御子のためにわたしはこの地獄にやってきたのです。あなたもまた、そのために遣わされました」
「今回の調査の鉢がわたしに回ってきたのは、母様の意向だったと記憶してるんだがね」白けた調子で、リュシアンは帽子を目深に被りなおした。「つまりその子供がここにいて、それを確保しろっていうのは母様のお達しってことかい」
「いいえ。母……あの方はなにも。ご存知だったとしても、少なくともわたしが彼女から何かを直接うかがったという事実はありません」
「だよね。あったら大事だよ。さて、そうなるとだ。……あまりものごとを深く考えるのは得意じゃないんだけどね。まだ思考が碍子に馴染んでないから。そうなると……悪いが、いよいよわたしは君の正気を疑わなくちゃならなくなる」
「なぜ? わたしは狂ってなどいません」
「狂人はみんなそう言うんだ。そういう修辞が成立してる」暢気を装い、リュシアンは呟く。「でも、うーん、ぱっと見そんなぶっ飛んでるって感じもしないからなあ。まあいいかな、あんまり気にしなくても。年長者としては、なんか責任感じちゃうし」

 リュシアンに比べればイルマがナラカで過ごした日数はごく短いはずだが、異常な環境におけるどんな要因が精神の脆弱性を貫いても不思議ではない。延々と闇に接するうちに、神に対しての認識が刷新されるような精神体験を経ることもあるかもしれない。共感できずともイルマの言動が比較的健常であると判断して、ようやくリュシアンは警戒を解いた。

「まあいいさ。神託でも救世主でも。なんにしろ、そいつは持ち帰って調べる必要があるだろうしな」
 目を向けるたびにイルマの背後へ深く隠れようとする子供に目を細めて、リュシアンは手を伸ばす。
 弱々しく燃えていたカンテラの火が、刹那消えうせた。
「え」
 と間の抜けた声を上げながら、リュシアンは反射的に後退する。風鳴りを、彼女の鋭敏な聴覚がとらえていた。後ろ足をもつれさせながら二歩イルマから離れると、指先に焼けるような痛みが走った。失われたランプの火が、差し出した手に乗り移ったようだった。
 瞬時に暗闇に対応した彼女の視界に映ったのは、しかし揺らめく炎ではなく腕からほとばしる血液だった。左手薬指と中指の付け根から手首にまで達するほど深々と、裂傷が生まれている。
「……イルマ!」
 思考をかき乱す痛みにも表情を変えることなく、リュシアンは即座にきびすを返して走り出す。立ち向かおうなどとは想像さえしなかった。
「イルマ、イルマ! 狂ったか、フェアファックス!」
 リュシアンは叫ぶ。吼えながら笑う。緊張感が興奮に関連付けされている。面貌は狂的な笑みを浮かべている。まいったなどうしようこれは死ぬな助かりっこない困ったぞ。あは。あははは! 破顔したまま、走りしなに放置していた荷物を回収する。引きつった笑いの余波で口角からは唾液が散っている。
 百歩も駆けたところで、リュシアンはつんのめるように立ち止まる。かと思うと頭から左に飛んだ。直後に先刻とは比較にならない勢いで、風が暗闇を疾った。リュシアンの瞳は風の正体を『光』と捉えた。その光が通り抜けたあとにはわだちが生まれていた。強固な地面に幾条もの直線が刻まれている。傷跡を見つめる。自分を支える地面と自分の体と、どちらが頑丈なのかという疑問がリュシアンの脳裏をかすめる。しかしなかば狂っていた彼女でも、それを試そうとは思わなかった。結果などわかりきっていたからだ。
「本気で殺しに来たな」リュシアンは舌なめずりした。すでに切り裂かれた左手の再生は始まっている。「なんでって聞いても教えてくれないんだろうね」
「それはあなた次第です、姉様」どこかの闇から、苦しそうな応答が飛んだ。「あなたは刹那的な衝動に忠実すぎる。なのに愚直に母からの依頼をこなそうとする。不安定すぎるんです」
「ま、それがわたしの魅力だから」
「協力してくれるなら、無闇に争うこともありません。しかし、あなたはどうあろうと御子をここから連れ出すつもりでしょう。たとえ、わたしがどんなに懇願しても」
「うん」

 とリュシアンはあっさりと頷いた。それからふと考え込み、慌てて付け加える。「いや! そうとも限らないよ? なにごとも物は試しだ。言って御覧。わたしも翻意するかもしれない」
「うそつき」柔らかい微笑の波動。一転して、凝固した殺意を闇が媒介する。「やはり、ここであなたは殺しておきます」
「しっぱいした」うなだれながら、リュシアンは身を起こす。

 そして、シンとした静寂を暗闇が奪回した。束の間の復権であろうことは予想に難くない。
 狂騒する神経を自覚的に煽り立てながら、リュシアンは荷物から唯一の武装を取り出した。電鍵(でんけん)と呼ばれている杖がその正体だ。もっとも殺傷能力は皆無に近く、リュシアンが電鍵に期待しているのは、イルマの凶悪な攻撃に対する防壁としての効果である。今は製造も調整も不可能なそれは、頑丈さだけは折り紙つきの杖だった。

「電鍵ですか。わたしがたやすく接近を許すとお思いですか、姉様」
 くぐもり変質しつつあるイルマの声を聴いて、リュシアンは相手に手加減や油断が望めないことを確認する。もともと期待もしていないので落胆はない。
 そのとき、リュシアンのはるか後方で地鳴りが起きた。振り返らずともその正体は理解できる。イルマの『攻撃』でナラカの巨大構造物が断ち切られ、その断層がゆっくりと乖離しつつあるのだ。最下層に至るまで、何度となくその恩恵に与っていたリュシアンだ。敵に回ったときの脅威についても熟知している。
「難儀だなあ」
 他人事のように呟いたそれが、この場での最後の音声発話となった。

 地の底の平原で、二人の魔女が相対する。

 完治した左手を右手でかかげた電鍵に添えて、魔女リュシアンは闇の奥でうごめくイルマ・フェアファックスを注視する。同時に彼女の鋭敏な感覚は、『環境』を荒らされた何ものかの怒りも掴んでいる。その怒気は、今は見えない先ほどの子供のものではないかと、段階的な思索を踏まえずリュシアンは直観した。これは彼女にとってたいへん珍しいことだった。しかしその奇特さに彼女が気づくことはない。リュシアンはすでに精神構造(ストラクチャ)の大幅な改編に取り掛かっている。まず戦力差が絶望的であることを織り込み、次いで彼女が精神に常駐させている命令群から「延命」と「逃避」をのぞいた名辞のすべてを捨象し、最後に空いた膨大な余白をイルマ・フェアファックスの戦闘に関するあらゆる常規的行動の計算と分析にあてた。これがリュシアンになしうる最善の手だった。三ヶ月は戦闘を継続できる、と『リュシアン』は思った。そして死ぬだろうと結論した。
 イルマが発する不協和音が収まったころ、戦場に体積でリュシアンとイルマの数百倍にも及ぶ『ワーム』が乱入した。その巨体が一瞬で微塵に切り刻まれるのを目測しつつ、リュシアンは闇に向かって跳躍した。



 それから七万五千時間が過ぎた。






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