■■A Boy Cannot Dream■■






case1.
―――→ A Boy Cannot Dream.


E:Fabled Gamble Humbleness


  ◆ 206X/9/ ◆

 一面の二進数もどき。気が眩むような記号の羅列。床も壁も天井も、二種の文字が蔽いつくしている。
 0と1ではない。それはの組み合わせだ。油性マジックによる荒れた筆跡は、透明な窓さえ侵食している。起伏も無視して、ありとあらゆる家具や、その隙間を文字が這っている。その空間だけはPBが存在の骨子だとも言いたげに。

「これは凄い」

 絶句して、月輪つきわは部屋の惨状をつぶさに見つめた。手近な壁から記号の進路をたどる。一見したところその配置は無造作で、法則のようなものは認められない。

「ねえ。ひどいでしょう?」

 途方に暮れて嘆息するのはこの貸家のオーナーたる中年の男である。月輪は控えめに同意する。それにしても、と男に慨嘆を接がせず話題を変えた。

「ここまでくると壮観ですね。偏執的すぎる。以前賃貸していた人はそうした種類の方で?」

 暗に精神病者か精神障害者だったのかと聞いている。
 デリケートな問題である。
 男はあからさまに口ごもる。それで答えているようなものだと月輪は思うが、こちらの納得の表情を見取って、男は慌てて否定した。

「いやいや。店子本人はそういうんじゃないですよ。まだ若い、といってもあんたほどじゃなくて三十から四十くらいってことですか。独身の男性です。まちょっと荒れた感じじゃあったかな。家内なんかはちょっと渋っておりました。言うとおりにしてたほうがよかったんですかねえ。ま、ぼくは一応それなりの会社の勤め人だし両親は健在だしってことで貸すことにしたんですが、それがとんだことをしでかしたんです」
「というと」
「連れ込んだんですよ」男は不快感もあらわにいった。
「女ですか」
「いや。子供を。確認したわけじゃないけど、男の子を。浮浪児っていうんですか。あの、なんとかいう……ほら、お台場のほうにいる連中の仲間ですよ」
「ブライン・チャイルド?」
「そんな名前でしたかねえ」

 彼らは厳密に言うと浮浪者の類ではない。異分子。そう片付けてしまうのが適当な人種だ。月輪は期待に胸を弾ませる。ブライン・チャイルドABC。時流の澱みの申し子たち。単なる失踪人のトレースよりは面白い要素だ。

「孤児を拾ってきて、この部屋に住まわせたということですか。まるでドラマですね」
「まったく。なんでいい大人がそんな馬鹿なことするんですかねえ。ぼくには理解できませんよ。正義感だかなんだか知らないが、大家に黙ってそんなことして。契約違反もいいところだ」
 男はよほど腹に据えかねているらしく、何度も月輪に同意を求めてくる。月輪はそっけなく頷く。
「大家さんはその子供がここに暮らしていることをご存知でしたか?」
「まさか。知ってたらすぐ出てってもらってますよ。しかもこんなふざけた真似までして。リフォームだけすればいいってものじゃないですよこれは。気色悪い。ねえ、賠償金とか取れますかねえ」
「それは私からはなんとも」

 改めて部屋の様子を見直した。念のため映像記録も取っておく。話の流れからするとこの落書の主はその連れ込まれた子供ということになる。しかし実際は大家である男も事後に確認したにすぎないだろうから、現段階では断定できない。月輪は確証バイアスを嫌う。
 しかしなぜなのか?
 ヒントを求めた月輪が行き着いたのはご多分に漏れずびっしりと文字を書き込まれたPC端末だった。異様は異様だが配電には問題がない。男に許可を取って機体を立ち上げる。案の定データはフォーマットされていたが、月輪は自前の復旧アプリケーションで断片データのサルベージを試みた。中身はともかくファイルネームだけでも充分情報の足しにはなるのだ。目ぼしい記録を待避させつつ、月輪はあるフォルダに目を留めた。

 Casino記録

「カジノねえ」

 意識に引っかかるものがある。
 ノックする。特にプロテクトはかかっていない。展開した先にあるファイルはそのほとんどが破損していた。かろうじて拡張子で表であるとわかるだけだ。
 ふん。そう上手くはいかないか。唇を湿して視覚誘導されるポインタを――
 一点で止めた。

 ゼロ

 テキストファイルだ。容量は百十五キロバイトある。月輪は瞬きして文字数に換算した。全角にして五八八八〇字。半角ならその倍。大した量だ。薄い小説くらいはある。
 自前の端末との接続を切って、月輪はファイルを展開した。
 とたんにモニタが文字の奔流で埋め尽くされる。
 その全てがの二種類で構成されていた。二の58880乗――と計算しかけて自重する。単純計算に没頭するのは月輪の悪い癖だ。
 ともあれ見逃すべからざる痕跡であるという気はした。なにか妄念めいているが、部屋の主にせよ連れ込まれた子供にせよ、この二文字にはただならぬ執着があるらしい。

「部屋と同じか」
「なんですか、こりゃ……」

 いつの間にかモニタを窃視していた男がぼやく。月輪が白眼を送ると、気まずげにへへと笑った。
 月輪は嘆息する。

「まあ、だいたい意味はわかったかな」
「ええ?」

 うかりひょんと男。月輪は得心を重ね、けれどと沈思する。

「問題は量か――」

 首を捻りながら、口を挟めずにいる男を顧みず、月輪は呪いのように書き込まれた部屋から退出しかける。その背に、男が慌てて声をかけた。

「あの役人さん。それで結局、ここの人はどこに行ったんで?」

 ぴたりと足を止めて、月輪は首だけを男に向ける。

「あ、ごめんなさい。私市役所のほうから来たっていうだけで、べつに市役所に勤めてる人じゃないですよ。というか、無職ですよ」
「は――?」
「店子さんについては、もっか鋭意捜索中ってことです。見つけて捕まえてカタにはめたらバラして再利用したいっていう人たちがいるんで。まあ、どうしてもっていうんなら事後でよければ報告に来ますね」

 呆気にとられる男に微笑の残像だけを残して、月輪はドアをくぐった。

「それじゃ、よい週末を。――バタン」

 


  ◆ 206X/9/26 ◆

 未来と過去をはかりにかけて、前者に傾く精神を狂気と呼ぶ。
 自分の居場所を確認した回数と同じだけ朝野はそう思う。

 その夜、新大久保にある高級マンションの一室に彼はいた。架空の法人の名義で貸し出されているその部屋は、実際にひどくきな臭い物件である。
 半ば法から足を踏み出しかけた非合法賭博が、月に一度そこでは行われている。この種の催事のご多分に漏れず今日の主催、つまり胴元には暴力団が噛んでいるが、すべてのケースでそうであるとは限らない。朝野が知る限り、趣味人的な集いがこうじて似た結果に行き着いた例が二つほどある。
 二十畳近いフロアは種種雑多なインテリアといかにも玄人然としたディーラーによって、にわかながら本格的な賭場としての雰囲気をかもしている。しかし相反するように訪れる客層の格好は高級だが平々凡々としたものだ。彼、彼女らはあくまで非日常を「のぞき」に来ているのであって、どっぷりと体を漬ける気はない。そういうことだ。だが道楽でも飛び交う金額は馬鹿にならない。流れによっては数百万単位の金が、一晩で右から左へと運ばれていくのだ。守秘を主眼としたこのサークルは非常に閉鎖的であり、それゆえに参加する人員は厳選されている。つまりは小金を持て余した富裕層を主に狙い目としているのだ。
 暗色のスーツを着崩した朝野は、スタッフ用の休憩室でぼんやり中空に目をさまよわせる。ポーズとして記録装置の類は一切置かないことになっているから、監視カメラやモニタの類もそこにはない。ただ呼ばれれば応じる必要が朝野にはあり、その場合想定される要求はかなり多岐に渡っている。そのぶん一晩での報酬は少なくない。釣り合いが取れていると判断するかどうかは意見のわかれるところだ。
 そして当然ながら、いつでも当局の出入りには気を配る必要がある。その種の情報を実はプロモータはある程度把握しているが、彼らが真っ先に守るのは身内と客だ。朝野のような使い捨てに等しい従業員は、むしろ真っ先にスケープゴートとして扱われることが多い。今のところ致命的な瞬間に遭遇したことは無いが、これからもそうであるとは限らない。刺激的で楽に稼ぐ方法ではあるけれど、だから朝野はこの仕事をするときにはいつも神経をすり減らしている。
 とはいえ始終がさ入れに心を砕いているわけにも行かない。じきにフロアに立つ交代の時間がやってくる。頃合だ、と思ったそのとき、

「おつかれ」

 という言葉とともに、長髪を綺麗に撫で付けた、背の高い男が休憩室に入ってくる。男は朝野の同僚で、ホストのような装いに暴力的な雰囲気を内包した、複雑な佇まいをしていた。年齢は二十代中盤から三十台前半。朝野よりもずっと場の空気に馴染んでいる。

「お疲れ様です、ヒカリさん」

 朝野も座ったまま頭を下げる。
 ヒカリというのが男の名前だった。恐らく偽名だと朝野は考えている。それは朝野自身が虚偽性障害に若干近い常習的な偽名癖を持っているからこその判断であり、実際のところはわからない。客観的に考えて剣呑な仕事に本名で従事するのはリスクが伴うからという程度の理由である。
 ヒカリはやれやれ疲れたと大儀そうに呟いて、懐から出した煙草を朝野に向けた。

「タバコいる?」
「もらいますもらいます。どうも。あ、この銘柄渋いですねえ。自販機じゃ買えないでしょコレ。吸ってるひとはじめて見た――」
「おーわかる? 若いのにマニアだね君も」

 同好の志を得たとばかりにヒカリは微笑んだ。朝野には喫煙の習慣はないが、希少種に近しい喫煙者の間には馬鹿にならない連帯感のようなものが芽生えている。それは会話の糸口としてはなかなかに有用だ。今の朝野は人懐っこく、善良で、引き際は心得ながらもどこか間の抜けているという、作為的なパーソナリティを演じている。
 対人関係における最初の距離感は実のところ立場によって形成されることがほとんどである。その後の必要性と時間が距離を変動させるか否かを決定付けるが、ある種の心理的手続きを矢継ぎ早に踏むことで、プロセスを劇的に早めることは可能だ。そして朝野はその手の関係構築に長けていた。より精確な表現を期すならば、「寂しがりや」を見抜きその胸襟に付け入る手腕に長けていた。
 会話はあちこちに脈絡なく飛んでは、より弾む方向へと誘導されていく。朝野の話題選択はメソッド化されている。話者の性格に対して凹凸の役割を受け持つことは基本として、具体的にはヒカリのように相手が喋り好きな場合、趣味と時代と嗜好と不満に満遍なく追随できればかなり親近感を演出できる。その上で自発的に具体性のあるエピソードを即興で作話できればなおいい。気をつけるのは、この段階で相手の持つ負の感情を逆撫でしないことだ。それはより親しくなる上では必要な場面もあるが、朝野が求める場当たり的な交際には必要ないものである。
 もちろん全てがマニュアル化できるはずもないが、ヒカリに関してはすんなりとこの詐術は通用した。彼はすっかり打ち解けた様子で朝野を見ている。笑みをかたどりながらもどこか作為的な眼差しを受けて、朝野はいかにもたった今気づいたという風にヒカリの双眸を見返した。

「――あれ。ヒカリくんて片目色違うんですね。エルシィいじってる?」

 言葉の通り、男の瞳は虹彩異色であった。
 エルシィ――正式名称をRetinal Layer Clientと呼ぶその眼球処置は、現代に生きる人々にとりもっとも簡便で身近な技術の粋とされている。エルシィは、特に若者にとっては身分証明のための処置であり、同時に重要な外界への窓となる。
 仕組みは実に単純だ。エルシィとは技術自体の総称であり具体的には亜種を含めいくつかの形式にわかれている。個人差や時々によって主流は左右されるが、現在ではパッチ式と呼ばれるタイプが普遍的かつポピュラーである。
 ほんの数刻、麻酔の時間に耐えれば施術は完了だ。以後、使用者の眼球はアクセス権限を有するあらゆる電子端末のインターフェースとして利用できる。送受信端末を増設すればモニタとしても機能する。つまりは相互通信型の、擬似網膜投影装置である。
 さらに先鋭的な利用法の中には、外科的な処置によって機能を拡大するものも含まれる。一部の特殊職ではそうすることが必須であるケースも存在するが、一般人の中ではそこまで極端な利用者はごく少ない。単純に身分証明のツールとして使われることがほとんではある。
 そして、ヒカリはその少数派に含まれている。「まあね」とヒカリは微笑む。かきあげた後ろ髪の隙間から、銀色にかがやく端子がちらりとのぞいた。

「意外としたわこれが。あ、あ、当然ヤミでやってもらったんだけどさ、この右目だけなのね。両目やるとやばいから。ていうのはこっちブイ決めるとき専用なんだ。俺的には両目でもいいんだけど、やってくれた先生がそれじゃマジ決めすぎると戻ってこれなくなるっていうからさー」

 ブイ――V。ビジュアルドラッグとも呼ばれる。エルシィのモニタ機能を利用してサイケなスクリーンセーバーを乱舞させるだけの子供だましだが、視覚情報は五感において圧倒的である。その手の専門家が組んだ人工的な幻視プログラムの中には既存の薬物との組み合わせによっては、おどろくほどの効果を発するものもあった。
 朝野はおおげさに相槌を打つ。

「それはそうですよ。なにしろ目に悪いですからね」
「いや、大丈夫だよ意外と。俺両目天然で1.5だし」
「はは。世の中不公平だなあ。そんなにいい目なのにヒカリくん暇なときは半分トリップしちゃってるわけでしょ」
「うん。ときどきやばいよ。マジ今はドコ私はイツここはダレ状態になってるし。君はブイやる人? ぽくないけど」
「や。俺は厳しいです。いっかいやったことあるけど、気持ち悪くなっちゃって軽くトラウマ」

 ヒカリはしたり顔で頷く。

「あ、そう。やっぱねえ。いや俺こんなんで説得力ないけど、薬系は止めたほうがいいよー。ところでさ、RLCのレチナールっていうじゃん? この意味知ってる?」

 もちろん朝野は知っている。

「いや知らないですよ。俺バカなんですよ。英語とか壊滅だし」
「うん、普通は網膜って意味なんだけどね。でもこれ別の意味があってさ。――網膜の中にはロドプシンていう光を受容するタンパク質があるんだけど、そのロドプシンはね、オプシンともうひとつ、レチナールっていうのでできてるんだって。で、実はこのレチナールが目から飛び込んできた光を吸収する機能を持ってるわけ」
「へえ……」

 聞くことよりも、話したという事実を相手に認識させることが、この場合は重要だ。朝野は優秀な聞き手たるべく身を乗り出す。
 そこに割ってはいる声があった。
「精確には――」
 ヒカリが口をつぐむ。
 朝野も声の元へ目を向ける。
 女がドアにもたれてそこにいる。

「網膜内部の、さらに円盤体にロドプシンは含まれる。そこで光刺激が電気信号へと変換されるんだ。さて、ロドプシンは別名視色素とも呼ばれる。その組成はタンパク質のオプシンと非アミノ酸のレチナールがリシン残基によって結びついたもの。そしてレチナールは別名をビタミンAアルデヒドという。で――タンパク質であるオプシンは光の明暗を識別するが、これに結合することでレチナールの作用による三原色の感受性色素が生まれ、ロドプシンの視色素たる働きが完成する。つかね、これレチナって網膜のほうが語源だから」

 すらすらと益体のない薀蓄を垂れ流す唇は鮮烈に紅い。長身を抱く暗色のサマーコートから、短めの黒髪に縁取られたその白い顔がはっきりと浮かび上がっている。
 一見して目を引く女である。容色に優れ、自らもそれを承知しており、自身の見目をもっとも引き立たせる手段をよく心得た、そんな女だ
 朝野がよく知る女に違いない。彼は腹中で盛大に舌打ちを繰り返す。こいつまたこんなところに。どうやって調べたんだよ一体。

「……どう。合ってる?」

 女は明らかに朝野を見て言う。ヒカリがやや困惑した顔で腰を上げた。

「何かお困りで? というか、タナカくんの知り合い?」
「そうよ」

 と、朝野が答える前に女が言う。女は嫣然と朝野に流し目を送る。

「ちょっと顔貸してくれる? タナカくん=v

 否やはない。見つかったからにはゲームオーバーだ。朝野は肩をすくめる。できれば両手を挙げたかった。
 女の名は朝野ツキワ。二十代の見た目と貫禄を持つ、朝野より二歳年下の妹だ。

 
 

 

 
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